【ぶんか】もっと知りたい!西国三十三所観音霊場めぐり
2021/07/08
N2
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日本を 知る
2021/06/16
西国三十三所観音霊場とは?
西国三十三所観音霊場は、日本の 仏教の 巡礼の なかで、いちばん 古い 巡礼です。
観音様を おまつりした お寺を、「観音霊場」と いいます。
- 和歌山県 3所
- 大阪府 4所
- 奈良県 4所
- 京都府 11所
- 滋賀県 6所
- 兵庫県 4所
- 岐阜県 1所
合計 三十三所の お寺(観音霊場)を 巡礼して 回ります。
いろいろな 場所に ありますね。
この 観音霊場を「札所」とも いいます。
一番札所は 和歌山県の「青岸渡寺」で、 三十三番札所は 岐阜県の「華厳寺」です。
「華厳寺」は「谷汲寺」とも いいます。
▼ 一番札所 青岸渡寺
▼ 三十三番札所 華厳寺
西国三十三所観音霊場めぐりの 始まりと その意味
観音霊場めぐりの 始まり

現在 八番札所と なっている、奈良県の「長谷寺」が あります。
そのお寺を 開いた「徳道上人」という 人が、
718年に 病気で 仮死状態になり、冥土で 閻魔大王に 会いました。
その時に 閻魔大王から
「俗人(普通の人)たちは 生前の 悪行によって 地獄に 送られる者が 多い。
俗人たちが 観音霊場へ お参りして 功徳(よいおこない)を 得て
地獄に 送られないように しなさい。」
とお告げを 受けました。
つまり「観音霊場」参りは、閻魔大王からの 指示なのです。
観音とは
仏教で 最高の 悟りの 境地に 達した 仏を「如来」といいます。
観音は「如来」に なれるように、修行を 続けている 仏です。
正しくは「観世音菩薩」と いいますが、「観音菩薩」と 呼ばれることが 多いです。
なぜ三十三なのか
観音は 如来に なるための 修行以外にも、
「衆生(俗人)」に 積極的に 救いの 手を 差しのべ、教化することも 観音の 重要な 仕事です。
「観音経」という お経の 中で、
観音菩薩は 33通りの 化身(姿を変えること)を して
我々俗人である 衆生を 救うと 書かれています。
この 観音経に 書かれている 三十三という 数字から、
観音霊場を 三十三所と したのです。
観音霊場巡りの 始まりと 停滞(止まってしまうこと)
閻魔大王から お告げの 証拠となる 宝印(仏の 印)を 授かり、徳道上人は 現世へ 戻りました。
この 宝印は 極楽往生の 通行証と なるもので、
その 宝印を 配る 場所が 観音菩薩の 安置されている お寺です。
徳道上人は、観音信仰を 進めようとしましたが、
すぐには 世の 中に その意図(気持ち)は 伝わらず、巡礼は 発展しませんでした。
徳道上人は 巡礼の 機が 熟するのを 待つため、
その 宝印を 兵庫県に ある「中山寺」(現在二十四番札所)に 納めました。
徳道上人が その後 80歳で 亡くなったため、
三十三所巡礼は 世間の 人々から 忘れ去られていきました。
観音霊場巡りの 再興

徳道上人が 閻魔大王から 宝印を 託されたときから 270年後の 988年に 再び 動きが ありました。
当時「熊野詣」という「熊野三山」への 巡礼が、盛んに おこなわれていました。
花山法皇が 熊野詣を したときに「熊野権現」が 現れました。
そして熊野権現は、
「徳道上人が 始めたのに、死後中断されてしまった観音霊場を 再興するように」
と お告げを しました。
花山法皇は さっそく、中山寺で 徳道上人が 授かった 宝印を 取り出し、
三十三所巡礼を もう一度 始めました。
そして 熊野で お告げを 受けたことと、
当時すでに 熊野詣を する人が 多かったこともあり、
熊野三山の 一つである「熊野那智大社」に 隣接する「那智山青岸渡寺」を 第一番と 定めました。
花山法皇が 三十三所巡礼を 再開されたことから、次第に 観音霊場を 巡拝する人が 増えてきたのです。
西国三十三所観音霊場の 定着

12世紀ごろの 西国三十三所巡礼は 修験者(山岳信仰の 修行者)や 僧侶などの 宗教家によるものが 多く、一般庶民が お参りすることは 少なかったようです。
一般庶民に 観音信仰が 浸透し、いまのような 三十三所巡礼も 兼ねた 観音霊場巡礼になったのは、室町時代に なってからと いわれています。
特に 江戸時代に なると 伊勢神宮に 参拝する「お伊勢参り」が 盛んに なってきました。
伊勢から さらに 西南に 足を 伸ばして 熊野の 那智山青岸渡寺に 行き、
近畿二府四県の 観音霊場を まわり、岐阜県の 谷汲山華厳寺と、西国三十三所観音霊場巡礼をします。
三十三番の 谷汲山を 出た後は 中山道を 通って 信濃の 善光寺に お参りし、江戸へ 帰る コースまで できたようです。